FOREX CHART ANALYSIS BY USING FOURIER TRANSFORM

2015/11/04

Posted on 11/04/2015 by Ryoun Kasai in ,
天正大判は、天正16年(1588)が初鋳とされている。重さは44匁2分というから約165グラムである。ただし、あまりにも高額な貨幣であったために流通せず、主に贈答品として使われていたらしい。

この点について、くだんの半村良が『産霊山秘録 上の巻』(角川文庫) の中で次のように評している。

貨幣を統一し、 単一通貨による国内経済の近代化をはかり、 海外通商に打って出ようとする信長構想は、馬鹿馬鹿しい超大型の恩賞用金貨の鋳造にすり変えられ、通商の出先機関設置とその権益確保のための海外進出は、全く意味の無い侵略行為となり果ててしまう。秀吉は無能な指導者であった。

小説の中の言葉とはいえ、まず半村自身の批評と見ていいだろう。ずいぶんと手厳しい。ただ信長が流通する金銀を着想した点において、秀吉より先進的であったことは間違いない。貨幣として鋳造されたかどうかは、さほど重要ではない。

もし信長が本能寺に倒れていなければ、その構想は、いかに実現されたであろうか。半村良のあと、凡百の仮想小説で繰り返し描かれたことだが、まあ、私も歴史学の論文を書くつもりはない。ひとつ、ここで自由に考えてみたい。

状況によっては、金貨・銀貨も鋳造させていたかもしれない。永楽通宝の供給が不足したなら、のちの寛永通宝のような独自の銭貨も鋳造させたであろう。しかし、まずは撰銭令から本能寺の変までの13年という期間に着目しよう。

秀吉が天正大判を鋳造させたのは、太政大臣就任の2年後である。家康にいたっては関ヶ原直後、幕府開幕の2年前に慶長金銀を鋳造させている。 それに比べると、13年という期間はいかにも長い。鋳造など必要ない。明銭であれ紙切れであれ、貨幣には流動性さえあればいい。そんな身も蓋もない洞察が、信長には似合いはしないか。

信長には秀吉ほどの黄金欲はなかったはずである。金の希少性には目を付けたかもしれないが、その輝きなどには興味がなかったに違いない。貨幣を貨幣として流通せしめる根拠は、金の輝きではない。金そのものでもない。根拠は、この信長に置け。そう考えて、彼は日本最初の不換紙幣を発行していたかもしれない。

ここで思い浮かぶのは、金本位制には批判的だった J. M. ケインズである。 1944年7月のブレトン・ウッズ会議の席上、イギリス代表であったケインズはバンコール bancor の構想を発表している。バンコールとは多国間決済で用いられる、一種の仮想通貨である。

金でバンコールの購入はできるが、バンコールで金の購入はできない。つまり金の支配からの離脱を目指すとともに、最大の金保有国アメリカへの気遣いも示した提案であった。ところが、アメリカ代表の H. D. ホワイトがこれを一蹴する。ついにはドルを基軸通貨とし、ドルが金との兌換性を維持する、いわゆるブレトン・ウッズ体制が決議されるのである。

のちにブレトン・ウッズ体制は崩壊するが、それはともかく……西でドル、東でユーロが使われるような状況の中で、信長はバンコールを導入する。国内で充分にシミュレーションを重ねたうえで、海外通商に打って出る……というのは、いや、もはや妄想の領域である。しかし、妄想もまた楽しいではないか。

ついでながらホワイトは、ケインズに向けてうすら笑いを浮かべたのではないかと妄想している。九条某が伊庭三尉に向けた、あのうすら笑いである。