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2018/01/27

Posted on 1/27/2018 by Ryoun Kasai in ,


17世紀はオランダの黄金時代といわれている。

アムステルダムを中心とする北部ネーデルランドの沿岸地域は、もともとバルト海貿易の拠点であった。この北部が旧教国スペインからの独立を果たすと、南部ネーデルランドの新教徒が続々と移住を始める。これには大商人も含まれており、彼らは地中海、および新大陸との貿易ネットワークをそのまま北部に持ち込んだのである。

さらに1602年、オランダ東インド会社が設立され、その貿易ネットワークはアジア方面まで拡大するにいたる。アムステルダムは世界貿易の中心地として君臨し、1570年には3万人ほどであった人口は、1600年には6万人、1670年には20万人へと急増した。

またレイデン、ハールレムの両市へも南部ネーデルランドから新教徒が流れ込んでいる。彼らが最新の毛織物技術を伝えたため、両市はヨーロッパでも最大級の毛織物工業都市へと発展するのである。たとえばユダヤ共同体を追放された哲学者スピノザが、どうにか思索を続けられたのも、オランダの経済的繁栄を抜きにしては考えられない。

オランダの黄金時代を象徴する存在といえば、誰をおいても画家レンブラントである。

多数の弟子を擁する彼の工房は、工房というよりレンブラント・ブランドの絵画を製作する工場であった。この絵画工場では新興市民を顧客としながら肖像画、あるいは集団肖像画が量産されていた。さらに画商をも兼ねていたらしいレンブラントの年収は、最盛期には5000グルデンを超えたと伝わっている。

現代の日本円に換算するなら、だいたい5000万円から1億円ほどであろうか?

それほどの収入がありながら、晩年のレンブラントが破産状態であったというのは不可解である。とはいえ、彼の生涯に深入りするつもりはない。ここでは出世作『テュルプ博士の解剖学講義』(上図)について述べておきたい。アムステルダムの外科医組合より注文を受け、26歳のレンブラントが腕を振るった集団肖像画である。

画題に名のあるテュルプ博士とは、中央やや右、鉗子で腕の筋肉をつまみながら講義を行う背の高い人物である。本名をクラース・ピーテルスゾーンという。のちにはアムステルダム市長に4選された名士でもある。

テュルプは、オランダ語でチューリップを意味する。チューリップを愛したピーテルスゾーンは、紋章にも真紅のチューリップを採用した。そればかりか、名前までニコラース・テュルプと、つまりチューリップ博士と改めたのである。

しかし彼は、1637年を境として、自らとチューリップとが関連づけられることを厭うようになる。プリンセン運河沿いの邸宅からは、表札も紋章も外されてしまう。いうまでもなく、チューリップ・バブルが理由である。厳格なカルヴァン主義者たる博士は、この花をめぐる空騒ぎに嫌悪を抱いていたと思われる。

さてレンブラントに話を戻すが、時期から考えて、彼の破産とチューリップ・バブルとは無関係である。だとしても、その代表作に薄っすらと刻まれていたバブル現象の痕跡を、まずはここで確認しておきたい。