
リュディア王カンダウレスは、妻を絶世の美女と信じ込んでいた。その日も王は無二の寵臣、メルムナス家のギュゲスに自慢をする。事実、美女であったにせよ、自慢される方は迷惑である。返答に困るギュゲスに、カンダウレスはとんでもない提案をする。寝所に隠れて妻の裸体を盗み見よ、と言うのである。
ギュゲスは固辞したものの、家臣の身とあっては断り切れない。命じられるまま、寝所の扉のうしろに隠れて、王妃の就寝を待つ次第となる。
王妃は衣服を脱いで、一枚ずつ扉の前の椅子にのせていく。見届けて、うまく寝所を抜け出たつもりのギュゲスの姿は、しっかり王妃に目撃されていた。王の淫らな計略であったことも見抜き、激怒した彼女は、翌朝、ギュゲスを呼びつけて迫る。
女として耐えられない恥辱を受けました。この上はカンダウレスを殺して王となり、私を妃とするか、おまえ自身が死ぬか、どちらか選びなさい。
王妃の決意を翻すことはできない。その夜、ギュゲスは王の寝所の扉に、再び身を潜ませた。手には短剣を握りしめて……かくして、ヘラクレス家は滅びた。ギュゲスは絶世の美女を妃とし、リュディアはメルムナス家の支配するところとなるのである。

エレクトロン貨というと、なにやら電子マネーのようでもある。エレクトロン elektron とは、琥珀を意味するギリシャ語である。リュディアのパクトーロス川からは砂金のかたちで、金と銀の自然合金が豊富に得られた。琥珀に似た輝きをもつために琥珀金 electrum と呼ばれ、 これを鋳造したものがエレクトロン貨なのである。
一方、電気を意味する英語のエレクトリック electric は、琥珀を摩擦すると静電気が起きることに由来している。エレクトロン貨と電気は、語源を同じくしているわけである。それにしてもギュゲスの時代、貨幣が誕生したのは象徴的ではないか。
妻の裸体を見る資格を有するもの = 夫
これを貞女の公式と呼んでおこう。公式が守られるためには、妻の裸体を見たものが二人以上、存在してはならない。故にギュゲスは自らの死か、王の弑逆かの選択を迫られたのである。しかし、もし王妃が公式を逆転させたらどうなるか。
夫たる資格を有するもの = 妻の裸体を見たもの
貞女の公式と似ているようでいて、まるで違う。これは娼婦の公式であると同時に、貨幣の公式でもある。王妃は、目当ての男に裸体を見せつければいい。裸体を貨幣として使うことによって、いくらでも新しい夫、新しい王を購入できるのである。
そんなギュゲスの不安の中から、エレクトロン貨は誕生したのかもしれない。