
使い慣れた宋銭に比べると、いかにも真新しく、贋金に見えたのかもしれない。
文明17年(1485)、山口周辺を支配する大内氏によって、日本最初の撰銭令が発令される。商取引の際、洪武銭は使用禁止。永楽銭・宣徳銭は3割までなら混ぜてもよいと、そこでは定められている。洪武銭・宣徳銭は、いずれも明代の銅銭である。
納税の際には宋銭を使えなどともあって、ちゃっかりした発令である。それはともかく撰銭令は繰り返し出されているから、効果は薄かったらしい。
忌避されたといっても、もともと永楽通宝は良質な銅銭である。室町後期には価値の逆転が見られるようになり、とりわけ伊勢・尾張以東において永楽通宝は流通していく。信長などは、自らの旗印に永楽通宝を使っていたほどである。
ただ畿内以西では、相変わらず古い宋銭を好む傾向があった。例えるならば、日本国内の西ではドル、東ではユーロが使われているような状況である。
そうした中で、永禄12年(1569)に発令された信長の撰銭令は、大内氏のそれとは異質なものであった。永楽通宝、および宋銭のうちでも良質な銭貨を基準貨幣とし、その価値を1とした場合の交換レートを、以下のように設けたのである。
ころ(洪武銭)、せんとく(宣徳銭)、やけ銭(焼け銭)、下々の古銭:1/2
ゑみやう、おほかけ、われ、すり(ゑみやうは穢冥。いずれも破損銭):1/5
うちひらめ(叩いて広げた加工銭)、なんきん(南京。私鋳銭の一種):1/10
ゑみやう、おほかけ、われ、すり(ゑみやうは穢冥。いずれも破損銭):1/5
うちひらめ(叩いて広げた加工銭)、なんきん(南京。私鋳銭の一種):1/10
悪銭・鐚銭の使用を禁じてしまえば、貨幣供給量が減る。といって出回るのを放置するなら、撰銭が激しくなる。交換レートの設定とは、なかなか合理的である。
このほか信長は、銅銭と金銀との交換レートも定めており、金10両に対して銅銭15貫文、銀10両に対して銅銭2貫文としている。 ただし、この場合の両は重量の単位である。つまり、信長は重量によって決裁させたのであり、金貨も銀貨も鋳造させていない。
日本最初の金貨は、秀吉が鋳造させた天正大判になるのだが……。